まず訪ねてみなくてはという場所があった。
先月、初めてGoogle earthで、この女川の地を見たときに
愕然としました。地図で見られるかぎり、
花屋さんはすべてほぼ全壊のように見えました。
女川湾に面して、4つほど花屋さんをお見かけしました。(敬称略)
*フローリスト花かず
*佐藤生花店(フラワーショップさとう)
*花実咲き
*フラワーショップ花友
そんな中、女川コンテナハウスというものを知り,
you tubeで見たときに「あっ」と思いました。
「フラワーショップ花友」さんのお名前が挙げられていたのです。
(先月、このブログの「Book of days」の項でご紹介)
岩手、宮城、福島の被災地域でお花屋さんは、30-40件ほどで
再起の意志を述べられている一時閉店のお店、なんとか再開できたお店など
ブログで状況を把握できるお店は数件に限られていました。
そんな中での、ひとつの良い兆しのようなニュースでした。
花屋さんもそうですが、地域の人々の生活に根付いた商店の運営に、このコンテナは
これは、菅原 出という方が発案し、イタリア製のコンテナハウスを利用し
設置に時間と費用がかからず、そして場所の融通がきかない国の仮設住宅と違い、
利用者のニーズに適した場所に設置できるものです。
ココニコ様(株式会社Zenpro様)が運営し、
NPO・難民を助ける会さまへの一般寄付を呼びかけ、コンテナ利用者に無償で提供されています。
自治体や消防署の仮庁舎、そして自治体の復興計画なくして自分の土地でも
家を建てられない、商売をはじめられない方々に、無償で提供されているということです。うまくマッチしたといえるようです。
ファミリーマートをはじめ、ナショナルチェ-ン・コンビニの大量出店、
また被災はしましたが、県外顧客がいて、クラウド・ファディング(croud funding)=不特定多数の小額出資を集める中小企業、
これらニュースに掻き消されがちな
花屋さんをはじめとする、地元の愛好・消費に立脚した商店も、
地域の文化と特色をささえる上で、絶対に必要なものと私は考えます。
国道398号線沿い、町立病院の下から歩いて西に15分くらい。
わたしは、夕暮れ時、閉まっていないかドキドキしながら向かう。
ありました!
赤いエプロンをした女性が戸口のところに、ちょうど立っていらっしゃっいました。
ご挨拶すると、「こんにちは」と静かで穏やかな口調。
(図らずも、私はお名前をききそびれました。以下、花友さんと呼ばせていただきます。)
ここに来た経緯を伝えたあと、フラワーキーパーとかはどうされたのですか、と聞くと、
中をどうぞと、コンテナの中をみせていただくことに。
瓦礫の間を湾のへりまで歩いてきたから、くさいかなと心配したが、
「どうぞ」
あ、ひんやりした空気、花屋さんのにおい
花がいっぱいだ。ところ狭しとぎっしり。
表参道の紀伊国屋のエスカレーターをあがったところの
小さなスペースのちょうどクリスマス時の様子を思い出した。
奥にエアコンが。
紫のスターチス・赤白複合のミニカーネーション
ユリ・小菊・オレンジ色の紅花
そして赤とピンクのバラ。
ちょっと窓べりにおけるグリーンもたくさん並べられています。
すぐ、お祝いに差し出せるように、ラッピングとリボンもつけて
そう、表のポップスタンドの言葉も、「Welcome!!」の幕も、
今、写真で見返しても、わたしが今回たくさん訪問して、みてまわったポップの中でも
気持ち`がつたわってくるのもので、お世辞でなく、いちばんかもしれない。
「もとのお店はもうすこし大きかったんですよ。ここはその4分の1くらいでしょうか。。」
マリンパル女川(写真右下の茶色の建物)の左手前にお店はあったそうです。
今はなにも残っていません。(手前の手すりは女川町立病院)
東京の震災前後の下降する花き消費事情、ガーデンローズのことなどお話すると、
「こちらは、もうお花があること、あるだけで、せいいっぱい。ありがたいんですよ」
わたしはことばが詰まりました。
ほんとうに、一本一本がたいせつなものであることを、
町民の方々への気持ち、無償でコンテナを提供して声をかけてくれた方への感謝を、
そして、花友さんはご家族のことをお話くださいました。
ぽつり、ぽつりと、思い出されるように。
何とお声がけしたらよいかわからなかった。
・・・・・・・・・・
お父さまが行方不明のままであること。
漁師で船で沖に逃げられたが、しばらくした後に、女川湾から15分ほど離れた沖合いに
ご所有の船だけが見つかったこと。
「他の町民のご家族のことを聞くと、自分の家族のほうがまだまだ。。」
胸がつまる思いで私は聞いた。
「まさか、お店を再開するなんて思ってもみなかった。」
「でもこの女川湾からくる潮のにおい。」
時間がたってくると、過去に生きてきた時間がよみがえってきて
またここに住みたいと思うようになり、町内の皆さんからも声をかけられて、
「それならもう一度」
それまでは、町のみなさんは、イオン石巻に買いに行かれていたので
「ああ良かった、よかったね!」
「やっぱり、なんかのときにお花がないと、さびしいんだよね!」
口々に言われるそうです。
花友さんの嬉しそうな顔に、わたしも嬉しくなりました。
仙台花き市場内のお付き合いのある仲卸さんをご利用になり
こまめに仕入れに行かれているそうです。
今は何が売れるかは、(石巻ほど)葬儀用花の需要というわけでもなく、
とにかく試行錯誤であると。
電話もネットも使えないなか、娘さんが携帯のミクシィで窮状をうったえたところ、ご友人、知人から、
「ほんとうにたくさんの、資材、リボンや綺麗な包装紙、使いかけでも丁寧に巻いた状態で
送られてきた」とのことです。
ここで、石巻の立花屋さんとまったく同じことばを、、
「みんな、やさしくて、日本をみなおしました」
そして、先立つものについて。
聞くところによると、女川町の復興は、8年計画とのこと。
「8年も待てないわ」はにかみながら女性らしく言う。
原発については町民の方々は?
「今回も問題なかったので、今後もとにかく信用するしかない」
私は、ここをなんとか、インターネットで多くのひとに知ってもらって
観光地のようになり、非被災地のひとびとが足をはこんで
消費していただくようになればいいですよね、と口にすると
花友さんは、だまって無言で「今はそんなこと思えないし、期待なんて」というような
少しさびしげな微妙な表情をされた。
当然だ。7/1、今から2週間ほど前、一歩踏み出したばかりなのだ。
石巻の立花屋生花さんは、5月の連休あけだから、ほんとうに「ようやく」なのだ。
実はこの日、お昼ごろ、コンテナハスプロジェクトの関係者の方(発起人の方でしょうか)が
訪れてきて、花友さんがなんとか軌道にのせて感謝の旨を報告されると、
その方がぼろぼろと涙をこぼされたそうです。
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話の途中で、元気な男の子がはいってきた。よそものの私に明るい表情をみせてくれた。
この子が青年になったとき、県外から、海外からも旅行者が訪れるようになれば。
そういう刺激は彼の成長には必要だし、それが街の成長そのものになるだろう。
時間はかかるが、正しく積み重ねてこそ文化だ。
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私は、小さな花束を購入して失礼させていただいた。
コンテナハウスの他のお店もみてまわればとあとでおもったが、
もうじゅうぶんだった。こころに思うことがたくさんあり、
とにかく多くの友人、ひとびとにこのことをつたえなきゃと心に誓った。
帰り際に、撮った写真。
商店街のかたがた、軽く会釈をむけてくださった。
「がんばろう」は町の人同士では、つかわないし、自ずとつかわなくなる、と
「とにかく、むりしないでね」と、精いっぱいがんばる人を思いやることばをかけあう。
花友さん、とても大切なことを打ち明け、教えてくださり、どうもありがとうございました。
また、皆で伺いますね、たくさんのひとにこのことを伝えます、それまでお元気で。