Polak tokaj dwa bratanki 「ポーランドとトカイの子孫たち」

Polak tokaj dwa bratanki 「ポーランドとトカイの子孫たち」
Wojciech Gogoliński 11-06-2010, ostatnia aktualizacja 11-06-2010 23:49

http://www.rp.pl/artykul/492917.html?p=1

File:Tokaj G Hoefnagel.jpg





photo by shintaro watanabe 2014 spring
<訳出>
戦前、ハンガリーの最も偉大なワイン農場主の一人、それはポーランドのブジスコジステフの田舎からやってきた一人のポーランド人であった、、、
これは、数十年に渡る5人の運命の物語である。すでに故人で会えないものもいる。
しかしながら、時と空間は一つのクラシカルな形で今もなお息づいている。
物語の始まりは、ハンガリー・トカイ地方Tokaj-Hegyaljaから遠く離れたポーランドのクヤヴィ・ポモージェ県Województwo kujawsko-pomorskieのジニン地区のブジスコジステフ村(Brzyskorzystew:ポーランド、ポズナニから北東へ約70Km)から始まる。
「ゼロからのスタート」
マリアン・ブリスキMarian Bilicki は、音楽教師のサイモンと専業主婦のキャサリンとの間の一人息子であった。異母兄弟は毎年、マリアンのところに遊びに来ていた。7歳の時に父が亡くなり、10才で学校が終われば、厳しい家計のやりくりのために様々な仕事をした。 彼は、卒業してブダペストに移住して医者になり、貯めた資金で、ハンガリー・トカイ地方のオボウイサント村AbaújszántóのメインストリートにあるペンディツPenditsのブドウ農園とその脇の小さな家を購入した。彼は、このトカイで小さな事業を成功させるために、
若い弟のフロリアンFlórián Bilickiに「一緒にやれば、絶対にやり遂げられる」と説得して、フロリアンも参加することになった。ブリスキ兄弟の隣には、二人のユダヤ人、レオポルド・ツィンマーマンLeopold Zimmermann とW・サロモン・フラグマンW. Salamon Flagmannが住んでいた。レオポルドは、この地域で最も大きなヴィンヤード(ワインブドウ農場)を持ち、かなりの数の販売員を抱えていた。サロモンは小規模ではあったがポーランドのクラクフKrakówにオフィスを持っていた。共に高級官史でもあった。彼らは、フロリアンの成長を見込んで、彼らの農場の運営管理を任せるようになった。

「小さな紳士」
フロリアン・ブリスキはしっかりした体格で背は高くなく、むしろ恰幅が良かった。Krka(小さな紳士)と呼ばれるのが好きで未婚であったが、子供がいた。
彼を死ぬまで面倒をみた子息はまだ生きているが、高齢で病院と家の往復で、会う事は難しい。ブリスキ兄弟のことを知っているから、会っておきたい人物なのだが。
フロリアンは、家のそばのヴィンヤードで収穫の最中に、椅子をもってきて座るのが好きだった。マリアンは突然、病気のため、1932年55才でのサナトリウムで亡くなった。未亡人、フロリアンと兄弟が相続人となった。兄弟は、長い間ブジスコジステフに居住したままであり、ヴィンヤードのあるオボウイサントの法的な所有権は兄弟からフロリアンへの相続となり、この資産を自由に運営できることとなった。
1929年になると世界恐慌がはじまり、ツィンマーマンとフラグマンの2人のユダヤ人は多額の負債を抱え、その弁済の為、隣接したワイン工場も売らざるを得なかった。第二次大戦の末期、ドイツ軍が侵入し、この2人のユダヤ人もアウシュビッツへ送られた。5年後、収容所から生きて帰ってきたものの、アメリカへ移住してしまった。戦争の混乱は、ブリンスキの利益とはならなかった。彼は、クラクフとトカイを結ぶ、古い商業流通の経路を作ろうとしたのだが、その努力もナチ・ドイツに阻まれてしまった。彼は、ドイツ軍の占領機関に対して、「私のワインは、ほとんどアーリア的ではない」といった手紙も送ったため、販売は全く振るわなかった。
(注*ナチがドイツ人を優秀な人種‘アーリア人種‘と定めたことへの皮肉)
そして戦後、フロリアンの商売に決定的な終わりが訪れた。共産主義者が、ヴィンヤードとワイナリーを占拠し、彼を追い出してしまったのだ。彼は1961年、失意のままこのオボウイサントで亡くなった。

「Wine that makes itself」
1990年にブドウ醸造業者とその後継者たちが権利を主張し始め、ヴィンヤードは元の所有者に返されることになり、所有者が不明であれば、競売にかけられることになった。ブダペストから移住したハンガリー人、マルタ・バウマンカウフは、若い時にドイツ人の医師と結婚し、ドイツに4人の子供たちと住んでいた。
「戦前と同じ姿がみられる、オボウイサントのヴィンヤード・ペンディツ」

1980年代末、マルタの夫は、末期ガンになり、自分自身医師でもあるがゆえ、余命間もなく、と自覚した。彼は、家族の未来を守ることを決断し、ツインマーマン、フラグマン、ブリンスキの持っていた農場を購入した。
まもなく彼は亡くなったが、彼の遺志は、名だたるワインとして生き返ることになる。

マルタはワイン醸造に従事していなかったが、ワインには長い間興味を持っていた。
世界で最も優れて、そして価値の高い醸造者の一人で、モーゼルワインの作り手として信奉者を集めるドイツのエゴン・ミューラーが友人であり、
彼の経験、アドヴァイスからは大いに学ぶところがあった。またこの土地の以前の農場主についての資料や情報も根気強く集めた。この4人(Bilicki兄弟、 Zimmermann、Flagmann)の「情熱的」な翼のもとで有名なCircle of Mád「マード村のサークル」がすでに形成され、トカイ地方の醸造家の間でも、最も確かな基準となっているマルタのワインは、その人間性の在りのままを表す。
すべての葡萄の木にひとつひとつに名前を付け、毎朝話しかける。




オボウイサントで毎朝、犬を連れて散歩する彼女の姿があり、町の者はみなそれを知っている。彼女は謙虚で、暖かく、寛容で、ワインという新たな生によって満たされている。
彼女には、よりどころにする学校はなくとも、すべて自分自身の経験、友達のアドヴァイス、そしてワイン作り手の直観を手にしている。ワインの本も、オーダメードのワインとも無縁である。
このワインは、マルタによって作られた、‘マルタ・サモロドニ(訳:マルタの、自然に醸造された)‘とも呼べるでしょうか。
昨年度、オリジナルのフロリアン・ブリスキ名前のラベルのあるボトルが見つかっており、ブリスキ兄弟、フラグマン、ツインマーマン、そしてマルタの作ってきたこの農場は、今もなお生き続け、世界に再び高らかに声をあげている。