St. Elisabeth von Türingen
聖エリザベートは、1207年7月7日(七夕)生誕。
ハンガリーのシャロシュパタクSárospatak でハンガリー王の娘として出生
エリザベートは非常に信仰心が篤く、
当時、戦乱、疫病などの混乱した社会の中で、民衆が不安のさなか、
率先して貧しい人、苦難、病気の人々への献身の生涯を遂げ、
無私無欲に、自発的に、喜んで他の人を助けた、ということで、
ハンガリーの人々に深く愛されているようです。
今の時代も、感染症と経済の不安、どこか似た状況かもしれません。
幼年よりドイツ語、フランス語、ラテン語、音楽、文学を学び、
ドイツのテューリンゲン方伯ルートヴィヒ4世に嫁ぎ
*ヴァルトブルク城(現チューリンゲン州 アイゼナハ郊外)で王妃となりました。
大変、夫の理解があり、
その支援のもと彼女は、孤児院、避難所、そして病院を設立して、
ハンセン病の人々の傷の世話を、直接、包帯を施していました。
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*このお城は吟遊詩人の歌合戦、ワーグナーのタンホイザーでも有名です。
カトリック教会の贖宥状に抗議したルターが、新約聖書のドイツ語訳を行ったのもこの場所です。プロテスタント宗教改革の最初の火がともされた場所ですね。
カトリック教会の贖宥状に抗議したルターが、新約聖書のドイツ語訳を行ったのもこの場所です。プロテスタント宗教改革の最初の火がともされた場所ですね。
そして約300年後1817年、
ドイツ中の青年がここに集まり、自由主義的改革やドイツ統一を主張しました。
1848年のフランクフルト国民議会では、当時の各国の王族が恐れるほど、
自由な国民の権利を認めた内容が決議されました。
大国に支配された国々の若者に、非常に勇気を与えました。
このヴァルトブルグは、聖エリザベート以後、不思議と
社会に影響を与えた人々が、集まっている、特別な場所のようですね。
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シャロシュパタクの聖堂のアイコン
ある日、エリザベートは教会で自分の王妃の冠をとり、
十字架の前で床にひれ伏し、
次のように言いました。
「わたしの王であるイエス・キリストが茨の冠をかぶって
おられるのを見ながら、どうしてみじめな被造物であるわたしが、
地上の地位を示す冠をかぶり続けることができましょう」
市民の目の前で、王族が、その世俗の「みせかけ」にすぎない、
統治者の象徴である「冠」を手放したということ。
周囲の王族はさぞ動揺したことででしょう。
当時、宗教というもの、王位も、権威というものはすべて、
無知な民衆を、貧しい民衆を、征服された状態にとどめおく為のものでした。
つまり、当時のハンガリーへの「異民族の来襲」
「飢餓」「自然災害」「病気」という
未知なる災いから、民衆の守るのは、「王族」と「教会」でなければならない、と
民衆に思い込ませるため、でした。
王族や、教会といた特権階級が、
民衆を助けるどころか、税やお布施を徴収、搾取している事実は、
エリザベートにとって、民衆にたいして、神に対して、
偽善であり、不誠実な行為に思われたのです。
しかし、彼女の行為は王族、権力者側からみて、理解できず、
また許されないものでした。
夫である国王が、何を配っているのかをたずねたところ、「バラです」と答え、
覆っていた布をあけたところ、 それらは、美しいバラに変わっていたとのこと。
この行為は、宮廷の王族からは敵視されやがて、エリザベートは城を追放されました。
花を差し出すことと、生命の食を与えること、
心と体に必要なものを同義においていることを象徴して示すエピソードですね。
彼女は後にローマ教皇より列聖されました。
800周年の2007年には、大きなイベントも開かれ、
フレスコ画をはじめ、後年多くの画家が、エリザベートについての絵画を残してます。
「Elisabeth von Türingen 」の名を冠したバラも
品種としてドイツで販売されています。
この14世紀のエリザベート王女の記憶そのものを、
現在のアイゼナハ在住のlisa bach リザ・バッハというドイツの一般家庭の女性が
現在のアイゼナハ在住のlisa bach リザ・バッハというドイツの一般家庭の女性が
覚えているという記録があります。
過去世の記憶でしょうか、あるいはチャネリングかもしれませんね
転生(輪廻)、霊魂の再来など、科学ではまだわからないことに、何かたいせつなもの
があると思います。
彼女が催眠状態で話した過去生の供述には、
彼女が催眠状態で話した過去生の供述には、
それまで一度も訪れたことのなかったヴァルトブルグ城に踏み入れた時、
彼女の声と表情の変化から、その真実味が伝わってきます。